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豊原支庁

樺太

樺太庁舎


豊原市
樺太庁も置かれた樺太の中枢都市です。昭和12年に樺太で始めての市となり政治経済・交通の中心地になっていました。露領時代はウラジミロフカと呼ばれていました。市内に飛行場もあったようです。

昭和16年当時で37160人を数えました。

豊原の語源はわかりませんが、樺太第一の平原鈴谷平野にあり、これからの発展を願い豊かな原野になることに由来して豊原としたのでしょうか。

ちなみにアイヌ語地名では、鈴谷川上流のイナヲカルシ・ヲロコトイ辺りになります。

イナヲカルシ=イナウ・カル・ウシ(イナウ・作る・いつも〜するところ)

ヲロコトイ=オロ・コツ・イ(中が・窪地の・ところ)

     =オロッコ・トイ(オロッコの・原)


能登呂村
北海道に一番近い西能登呂岬(現クリリオン岬)がある能登呂村、人口は昭和16年当時2415人いました。役場は雨龍浜にありました。

地図を見ると親不知なんて地名があり、近くに菱取という地名があります。菱取の語源は、アイヌ語のペシトルで、ペシ・ウトル(崖の・間)という意味で親不知の地名があるのが納得できるアイヌ語地名です。

能登呂村の地名の由来は、アイヌ語のノトロで、ノッ・オロ(岬・の処)に由来します。


三郷村
亜庭湾に面した三郷村、人口は昭和16年当時2459人で役場は多蘭内にありました。初見沢付近に飛行場があったようです。

村の語源は現在のところ不明です。北海道ですと道が3号だったりすると地名も3号になりそこに当て字して三郷がありますがここはどうなんでしょうか?

アイヌ時代はタラントマリと呼ばれていました。意味はわかりません。


留多加町
南樺太鉄道(新場ー留多加)の終着駅だった留多加、人口は昭和16年当時7295人いました。付近一帯は肥沃な農耕適地が多いことから大豊・豊栄に殖民地があり、農産物の集積地となっていました。

留多加町の地名の由来はアイヌ語のルウタカで、ル・オ・タク(道・たくさんの・玉石)の転訛かもしれません。


千歳村
亜庭湾の中央部にあり豊原市と大泊町の間にある千歳村、役場は三の沢にありました。人口は昭和16年当時2474人です。役場のあった三の沢はアイヌ時代はトマリオンナイと呼ばれ、トマリ・ウン・ナイ(泊・ある・川)の転訛したものと思われます。

また、貝塚の地名があることから貝塚があったものと思われます。地名の由来はわかりませんが、おそらく村の永い未来への繁栄を願って名付けられたものと思います。


大泊町
亜庭湾の北奥に位置し、樺太庁鉄道の東海岸線の起点であり、稚泊航路の起点として島内の交通や内地連絡の貨客の集積地や樺太の表玄関として大きく栄えました。人口は昭和16年当時21779人いました。

ソ領時代はコルサコフ及びポロアントマリと呼ばれ南部樺太の首都でした。明治38年に日本領になった最初の3年は政治の中心地として各官公署が置かれたようです。

大泊の由来は、アイヌ語のポロアントマリポロ・アン・トマリ(大きく・ある・泊)を意訳したものと思われます。

ちなみにアイヌ時代はクシュンコタンと呼ばれていました。

クシュンコタン=クシ・ウン・コタン(川向こうに・ある・村)


深海村
亜庭湾沿いの大泊の隣町で、人口は昭和16年現在2017人で役場は女麗(めれい)におかれました。アイヌ時代はメルイと呼ばれました。

深海(ふかみ)村の由来は不明です。

メルイ=メム・イ(泉池・あるところ)の転訛と考えられますがなかなか素晴らしい当て字をした地名と思います。


長浜村
亜庭湾沿いの村で役場は長浜にあり、人口は昭和16年現在3428人いました。村内には大小の地辺讃湖や和愛湖・遠淵湖などがありました。

長浜の地名の由来は、亜庭湾沿いの長い浜からでしょうか、アイヌ時代はチベサニと呼ばれていました。

チベサニ=チプ・エ・サン・イ(船を・そこで・下ろす・処)


遠淵村
遠淵湖のある遠淵(とうぶち)村、湖が深いことから沿岸の船の航行の安全上も重要なところだったようです。役場は遠淵にあり人口は昭和16年現在2200人いました。

村名の由来は、アイヌ語のトウブチで、ト−・プチ(湖・その入り口)で役場も由来のとおり湖口のところにありました・


知床村
亜庭湾東端にある中知床岬のある知床村、役場は弥満(やまん)にありました。人口は昭和16年当時4789人、村内に美田炭鉱がありました。また変わった地名として、グローズヌイ岬があります。なにかチェチェン共和国の首都を思い出しそうな地名です。

村の由来はアイヌ語のシレトコで、シリ・エトク(大地の・果て)で岬を意味し北海道の知床と語源は同じです。

役場のある弥満はアイヌ時代はヤワンベツと言われ、ヤ・アン・ベツ(陸の方・にある・川)と思われます。


富内村
現在もサハリンの行楽地になっている富内湖のある村で、その他にも恩洞湖や遠幌湖・能仁湖など湖の多い村です。役場は富内(とむない)にあり、人口は昭和16年次で2773人でした。

富内村の地名の由来は、アイヌ語時代に地名だったトンナイチャ、ト・ウン・ナイ・チャ(湖・にある・川の・口)からです。また、村内のイチャン川沿いに孵化場があったようです。川名のイチャンはアイヌ語で(鮭・鱒の産卵場)を意味するのでぴったりしています。

また、海沿いに神居という地名がありますがアイヌ時代はカムイクシといわれ、カムイ・クシ・イ(神・通る・処)を意味するのでカムイコタン同様、航行での難所だったのかもしれません。


豊北村
川上線の分岐駅、小沼駅がありこちらに役場もありました。人口は昭和16年次3487人です。村内の富岡地区に孵化場があり、川上線の途中にある川上温泉も村内にありました。

村の由来は豊原の北に位置するところからと思われます。

小沼(役場のある)はアイヌ時代エナウシトウで、イナウ・ウシ・トゥ(木幣・ある・沼)の意味です。


川上村
炭鉱の発展で村の面積は、樺太でも非常に小さい村ですが人口は昭和16年次で5720人いました。小沼から川上線が分岐し豊原より川上炭山まで4往復の列車が運行されていました。

村名の由来はわかりません。どこかの川の上手に位置したからでしょうか?

ちなみに露領時代は、ブスタキと呼ばれていたそうです。


落合町
樺太庁鉄道の東海岸線の要地で、露領時代はガルキノウラスコエと呼ばれていた十数戸の寒村に過ぎませんでしたが、大正6年に製紙工場が出来てから急速に発展したそうです。

付近には肥沃な農耕地のほか豊北村との境近くに飛行場がありました。

役場は落合にあり、人口は多く昭和16年次25135人いました。落合の地名の由来は、内淵川と多古恵川の落ち合う場所だったことに由来します

アイヌ語時代はシアンチャと呼ばれていました。シ・アン・チャ(主要・である・口)あるいはシ・ヤ・ウン・チャ(大事な・網・ある・岸)で大事な川口か岸辺だったのかもしれません。


栄浜村
落合より樺太東海岸線の支線が栄浜海岸まで伸びており、役場のある栄浜まで5往復の列車が運転されていました。漁業が盛んな村だったようです人口は昭和16年次4094人でした。

また、宮沢賢治がこの付近でオホーツク挽歌を書いたそうです。

村名の由来はわかりませんが浜の栄えることを願ってつけられたのかも知れません。アイヌ語時代はタバラコタンと呼ばれたようです。


白縫村
東海岸線沿いの町で役場は白浦にあり、近くには炭鉱もありました。人口は昭和16年次4109人いました。

役場のあった白浦はアイヌ語時代はシララオロと呼ばれていました。シラル・オロ(平磯・の処)とおもわれます。村名の由来はわかりません。