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歯舞・色丹・国後島

色丹島

色丹島サキムイ

国後島

国後島泊村


歯舞村
根室の北東方に連なる、水晶・秋勇留・勇留・志発・多楽の主要な5島からなり、昭和20年までは漁業や馬の飼育などが行われ、人口は推定で4455人いました。現在は根室市大字珸瑶瑁村となっています。

秋勇留(あきゆり)島

樹木無く、草に覆われた島で、昆布は歯舞諸島で一番取れたそうです。地名はアイヌ語のアキロロに由来するそうで、アク・ウリリ(弟の・勇留島)で、対を成す勇留島を兄に見立てたことからきています。

志発(しぼつ)島

歯舞諸島最大の島で、沖合漁業が盛んな島でした。地名の由来はアイヌ語のシボッで、シペ・オツ・イ(鮭・多い・ところ)からです。

水晶(すいしょう)島

納沙布岬に近い平な島で、昆布漁が盛んな島でした。地名は、アイヌ語のシィショからで、シ・イショ(大きい・平磯)に由来します。

多楽(たらく)島

歯舞諸島最東端の台地状の島で港にあまり恵まれず、小規模な漁業の島でした。地名はアイヌ語のクラウクモシリで、(鱈を獲る島)の意味だそうですが諸説がありはっきりしません。

勇留(ゆり)島

沖合漁業が盛んで北洋や中部千島への漁業基地になっていたようです。地名はアイヌ語のウリリで、(鵜)に由来し鵜が多い島でもありました。


色丹村
歯舞諸島の東にある南北9.5キロ東西24キロの島で、高山植物が多く海岸線も景勝地が多いことから国立公園の候補にも上がった島でした。漁業が盛んな島でしたが島内では馬の飼育も行われていました。

明治17年に千島アイヌが強制移住させられた歴史があります。人口は昭和20年次920人でした。

地名はアイヌ語のシャコタンで、サク・コタン(夏の・村)より、島の反対側にはマタコタンマタ・コタン(冬の・村)もありました。


泊村
国後島の南側に位置する村で、大正12年に泊村・東沸村・米戸賀村・秩苅別村の合併で成立、昭和20年次は4650人いました。漁業が中心の村です。

国後の玄関口、泊には根室から明治40年に航路が開設され3時間半で結ばれました。冬季は不凍港の東沸・古釜布が避難港として利用されました。

東沸の由来はアイヌ語のトーフツで、トー・プッ(湖の・口)で湖口のことで、大きな東沸湖がありました。

米戸賀(べとか)の由来はアイヌ語のベトカに由来し、ぺツ・ウッカ(川の・瀬)と思われます。

秩苅別(ちふかりべつ)は、アイヌ語のチプカルベツに由来し、チプ・カル・ぺツ(船・作る・川)からです。

現在の国後の中心の古釜布はアイヌ語のフルカマップからで、フル・カ・オマ・プ(岡・の上に・ある・もの)で、古釜布沼を意味するものと思います。


留夜別村
国後島の北部にある村で、大正12年に大滝村と合併して成立、漁業中心の村で人口は昭和20年次2720人でした。

村内に爺々岳やルルイ岬や安渡移矢岬があり、現在も自然のまま保護されているようです。

村名の由来はアイヌ語のルヨオベツに由来し、ルイ・オ・ぺッ(砥石・多い・川)の意味です。

爺々(ちゃちゃ)岳はアイヌ語のチャチャヌプリからで、チャチャ・ヌプリ(爺・山)で国後アイヌから大変親しまれていた山でした。

ルルイ岬はアイヌ語のルルイトからで、ルル・エトゥ(海の・岬)に由来します

島の東端の安渡移矢岬はアイヌ語のアトイヤからで、アトゥイ・ヤ(海・岸)で海岸を意味したものです。