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管理人サルルの東北太平洋沖地震と福島原発事故

2011年3月11日14時46分、私の人生においてとても悲しい東北太平洋沖地震がありました。北海道やアイヌ語地名と関係なく「カムイミンタラ」のサイトの趣旨とは離れますが番外として私の経験をここに残しておきます。(もともと価値もありませんので読みたくない方は無視して頂ければ幸いです。)九州から東北に移り住んで15年以上が過ぎ幾多の地震を経験はしましたが、今までになく長く激しい揺れに戦慄しました。

今回の東北太平洋沖地震で亡くなられた多くの方に謹んでご冥福をお祈りするとともに被災された多くの皆様に心よりお見舞い申し上げます。また地震と併発して起きた東京電力による人災(国内最大の原発事故)の収束のため活躍する消防・自衛隊・東電の極一部の方・そして下請けの方に深く感謝いたします。福島がいつまでも安全で暮らせる街であり続けることを今はただひたすら祈っています。

また今回の大事故を引き起こしながら謝罪すらせず福島原発にすら来ない東電の幹部並びに原子力安全保安員・原子力安全委員会には福島県民として大変憤りを感じます。福島県民はあなた方の行為や無責任な言動を終生忘れず許すことはないでしょう。

今日(3月20日)から少しずつ書き足して行こうと思います。思えば、地震がなかったら今日は夕張にいる予定でした(笑)なぜか今は原発事故に毎日不安つのらせながらを抱きながら福島にいます。あの地震があったことで私も随分変りました。たぶん死ぬまで忘れることのできない地震になった「東北太平洋沖地震」と「東京電力福島原発事故」の(私の)経験を、ちとお伝えしたいと思います。

3月11日、朝からいつも通り私は、自宅内にある仕事場で仕事をしていました。今の季節は果物の出荷も終わり、家でPCを前に仕事をすることが通常です、丁度地震のときは昼休みにして。家族でNHKの「篤姫」を見ていました♪もちろん私が宮崎あおいのファンだからです(笑)

妻は、仙台に行く用事がありましたが、篤姫を見たいたので終わってからバスで仙台に行くことにしていたので運よく難を逃れることができました。息子も丁度中学の卒業式で早く戻ってきていたので家族3人、テレビの部屋にいました。偶然ですが家族3人いたことは神様に感謝しないといけません。

妻は去年の秋まで仙台の若林区で仕事もして荒浜へも行ったりしていたようなので本当に運が良かったように思えました。息子の卒業式が行われた体育館も地震でライトが落下したりステージの天井が落下する被害が出ており本当に運が良かったと思いました。

3月11日14:46分、篤姫を見ていたら緊急地震速報が流れ(涙)すぐに揺れが始まりました。いつものようにたいしてことないだろうと思っていましたが、だんだん揺れは激しくなり、テレビはずれて映らなくなり、食器棚の皿が割れまくる音や本棚が倒れる音、そして家の瓦が割れる音、またテレビの部屋の電灯が外れ飛んで割れ、正直もう家が壊れるかと思いました。それなのに激しい揺れがいつまでも続き本当に本当に怖かったです。家の中はもともと奇麗に掃除された部屋ではありませんが(笑)殆どの棚がひっくり返っていました。チェーンで繋げていた食器棚こそそのままですが、戸が開いたため皿の半分以上は粉々でした。余震も多いため数日は片付けず、地震以来今も、西洋式に変えた我が家は一部分を除き土足で歩ける家になりました(笑)

5分ほどしてようやく揺れが収まりました(涙)、テレビを動かしたら一部のBSだけは映り東北太平洋沖で大地震が起こったことがわかりました。大津波警報もでて大災害になりそうなことだけは分かりました。もちろんあれほどの大津波が沿岸地域に襲うとは思っていませんでしたが。

しばらくして、また大きな余震があり思わず怖くて瓦の落下に注意しながら家族で外に避難します。玄関も開かなくなるとまずいので開けっ放しにします。近所の人々も同様に家から出てきています。皆さんやっぱり不安は一緒です。近所の家は、我が家より酷く瓦の落下した家もあればヒビの入った家もありました。

近くの病院の看護婦さんや近くの保育園園児も皆さん外へ避難していました。携帯がまだ使えたので急ぎ実家の長崎に家族の無事を伝えましたが嫁の実家の仙台は通じずとても心配でした。

しばらくは、家に戻ったり、大きな余震があると外へ逃げたりの繰り返しでした。それだけ大きな余震がとても多い地震でした。家はガラスの破片が危険なので勿論土足です。天気は急に悪くなり雪も降ってきました。珍しく大きな雷が1回鳴りとても不気味に感じました。福島にも随分長くいますが降雪時の雷は初めてです。

家ではテレビをじっと家族で見ていました。あと長崎大水害の経験から念のためお風呂に水をいっぱ貯めました。あとでこのことで水洗トイレは大変助かりました。風呂の水はすでに濁っており飲み水には無理な水でした。

うちは運よく電気も消えなかったので暗くなるまでずっとテレビに釘ずけでした。仕事用のPCひっくり返り休業です。津波の情報や映像をただ恐る恐る見ていました。まだ水も出ていたので炊き込みご飯を夜は炊いて食べました。ストーブは寒いのですが余震が怖いため3日ほどは我慢しました。

大津波の映像に恐ろしさに感じずっとテレビから離れられませんでしたが夕方食べ物を買う必要性を思い出し、買い物に出かけました。近くの生協一帯は電気すら通らず真っ暗コンビニもしまっています。仕方なく反対側に行くとローソンが開いており、お菓子と餅が残っていたので買いました。餅が買えたので大喜びだったのですが、家に帰るとレンジが壊れていました(大笑)

結局、夜は炊き込みご飯とお菓子を食べたような気がします。とても美味しく感じました。夜のテレビでは荒浜地区に300体近い遺体があるニュースや気仙沼の悲惨な火災に心が傷つきました。気仙沼は旅行で市内も歩いたことがあるだけに本当に衝撃でした。

ニュースも気になるし、寝室も地震で倒れないようにグッズで固定していた本棚がひっくり返り散乱しているので、その日は余震の不安も大きいためテレビを見ながら1階で夜を過ごしました。妻と子供は一応布団を被っていましたが、私は椅子に座って毛布を被りひたすらテレビを見続けていました。足元が寒いし余震も多いのでその日は寝られませんでした。

12日朝、あまり食べ物がないのでとりあえず、卸売市場で家族のためのビタミン源にデコポン10K購入、こんなとき果物屋をやっている私は助かります。それから開いているコンビニを探しましたがビールと雑誌しか売っていませんでした(涙)

10時ごろ近所のスーパーが開いた情報を聞き、家族のため菓子パンを沢山購入しました。うちに玄米やインスタントラーメンはあるのですが、水は止まり、ガスがとまり役に立ちませんでした(^^;;あとはテレビを見ながら津波被害のあまりの甚大さに言葉を失いました。

昼前に嫁の実家(仙台)より電話があり3人とも無事であることが分かりました。心配していたので自分でも信じられませんでしたが、妻すら泣いてないのに思わず涙がこぼれました。涙腺が地震で壊れたみたいです。

三陸は福島に住み始めた頃、気仙沼や大船渡・宮古・田老・田野畑などを旅し、その後も北海道旅行などでたまに通ったりしていたし、息子と女川にも遊びに行ったこともあり、吉村明氏の「三陸海岸大津波」なども読んでいたのであまりの街の壊滅的な変貌に心が酷く痛みました。どうみても三陸の歴史を考えると、復興などと簡単にいえるレベルではないからです。ショックでした。

左写真は震災翌日朝の市場から見た吾妻山、中央写真は倒壊した福島学院大、右写真、学院大近くの瀬上地区、いずれも買い出し途中に撮りました。

地震だけでも大変な災害でしたが3月12日から新たなる火種が始まりました。こちらのほうが私にとっては大きい災害になる東電による原発人災事故です(今も被害が徐々に広がり継続中です)。地震直後にホウ酸を入れていればこのようなことにはならなかっただけに、東電幹部並びに原子力安全保安員の罪は相当重いでしょう。福島にはなぜか東京や関東のために原発が沢山あります。東電のものですので勿論福島に使うための電気ではありません。

古いし危ないとは言われてきましたが、ニュースで爆発の映像を見たときは本当に驚きました。もう終わったのかと正直思いました。。。東電はいつもいかにこの原発が安全かをアピールするばかりだし、事故があってもいつも隠しある程度してからばれるパターンが多く、住民にすぐ知らせることは殆どなかったと思います。いつも福島県から怒られていたのでそれに慣れていたんでしょうか。。。

世界にまで恥をさらした原子力安全保安員(不安員)にいたっては、以前から原発で軽い事故があり、福島県がまだ運転再開に難色をしても、すぐに安全宣言し、まさに東電のいいなり状態、もともと経済産業省の天下り先のような機関だから、名前だけで実態はなかったのでしょう。

国民も今回の事故でよく分かったと思いますが、ろくな知識すらなく、国民から原子力の危険を回避するための機関ではなく、国民に原子力の不安を与える広報機関に過ぎません。こんなものに税金が使われること自体腹立たしいことです。どこぞの国の特権階級と実態は変らないでしょう(笑)

もし名前どおりの機関なら世界で恥をさらすこともなく、事故があった時点で福島にすぐ行っているでしょうから。未だに安全な地域から事故の説明をし、詳しいことは調査中との答弁ばかり、いかに専門的知識がない人間かよくわかります。そういう意味では極めて日本らしい特殊法人とも言えますが。。。まったく責任すら感じていません。事故が収束したら東電の幹部同様、事故の責任をとって刑法等で厳しく罰せられるべきだと思いますが(^^;;;;;

3月13日、実は18日から今年最後の北海道旅行に行く予定でしたので、切符をキャンセルするため福島駅に行きました。駅は閉鎖され、換金もキャンセルもできませんでしたが、駅員さんに1年以内に持ってくれば返金対応とのことで安心しました。

駅からの帰りに開いている店からお菓子を買うことができました。午後なんと今度は福島原発3号機が爆発、今度は昨日よりかなりやばい煙が見え、本当にもうだめかもと家族で物凄く不安になりました。チェルノブイリの再来か。。。

相変わらず東電からの発表は遅く、テレビ局の報道がなければ隠すつもりかというほどの酷い対応に腹が立ちます。だいたいこんな大事故なのに社長をはじめ幹部が福島原発に急行しないこと自体馬鹿にしてます。きっと「あんな危ないとこ 行けるか!」と思ってるのでしょう。現場は下請けが多いといいます。まったく根性まで腐りきった会社のようです。

この後、日は忘れましたが自衛隊員や消防隊員が被爆する事案もありました。保安員や東電は安全と言っていたのに。。。まったく無責任としか言いようがありません。家族で「原子力安全保安員と東電役員が被爆しながらでも消火しろ」と叫んで日頃のストレスをテレビにぶつけていました(汗)

水道は5日間ほどまったくダメでしたが、近所の神社の井戸水で大変助かりました。台所にカセットコンロを見つけ4日目の夜には暖かいご飯とインスタントラーメンを食べたときは感動しました。16日にはガスも復旧し久々風呂に入り感動しました。

その間も、原発事故だけはずっとトラブル続きで心配が続きます。17日に生協で買出しに並んでいる(店内入場まで約30分)と近くの高校に南相馬市から避難していた方がおりたまたま店に入るまでいろいろお話を聞かせて頂きました。南相馬など浜通りでは避難対象地域があるため行方不明者の捜索もできず、遺体もそのままに避難する事態になっているなど本当に悲しい話に心が痛みました。実際次の日のニュースで病院から高校に避難させられた老人が手当てもできず22人もお亡くなりになる悲しい事件も発生しました。

18日、どうも朝から昨日の近所の高校に避難していた南相馬の避難民が気になります。大変珍しく(笑)私にも少しは人間の心があったようで、何かお役に立てればと頭を使い、新聞屋からもらってストックしていたティッシュボックスやサランラップを多数届けてきました。(避難所に一応連絡後)

妻も珍しく見直したと感心しています(笑)、どうだ!と調子にのって、ちょっと花見山に行って来るといったら、急に態度が急変、「何考えてんの?」と激しい白い目線攻撃に撃退されました。女心は怖いです(^^;;夕方には回覧板が回り、避難所が欲しいものが回覧され地域の迅速な行動が嬉しかったです。

原発事故が続くにつれて心配なことがだんだん起きはじめました。初めは、長崎の原爆被害と同じで浜通り側は放射能が高くなる可能性があるけど阿武隈の山がある福島へは山が壁になってまったく問題ないだろうと勝手な思い込みをしていました。

夕方より雨が降り、急ぎ瓦の被害箇所にシートをかけましたが悲しいことに急に福島市の放射能値が上がり、飯館村についで県内2位の高い水準でずっと推移しました(涙)、たぶん風向きと雨だったのでしょうが暗澹たる気持ちになりました。長崎人なので長崎の原爆の本は何冊も読んでましたが何の役にも立ちませんでしたね。あれ以来、福島県のHPで放射能値をチェックする癖がつきました。

19日、今日はいい天気でした。ふふふっ 悪党の私は家族のために買い物へ行きました。行列が長く時間がかかったと言い訳をしつつ、こっそり花見山へ行ってきました(爆)その日の花見山は下記バナーからどうぞ♪

20日頃までは、知人や果物屋のお客様からのありがたい励ましなどもあり、たとえ風評被害があってもサイトやブログを通して福島の果物及び農業をアピールしようと思っていました。私の仕事である果物屋で、まだやる気まんまんでした♪美味しい桃が出せる限り。。。。そう思っていましたが世の中そんなに甘くはありませんでした。。。。

21日、とうとう県内で常に放射能が一番高かった飯館村(原発から北西役40K)の飲料水から基準値の3倍を超える放射能が検出され、大人も含め飲料水はトイレや洗濯・風呂は問題なしですが飲料には向かないため、給水車やペットボトルを配ることになったことが地方ニュースで小さく出ました。飲料水だから大事な問題なのですが、テレビでは福島の牛乳や茨城のほうれん草が基準値を超えたニュースばかりでした。

早速、野菜から放射能が検出される事態に、安全な桃を出すことを願っていた私の心も水に続く目に見えない放射能の怖さに揺らぎはじめました。隣村の飯館村の水がダメになる事態に県内で2番目に高い福島市(原発から北西約60K)の水も時間の問題と悟り、焦りながら家族で相談し息子だけでも安全な実家のある長崎へ避難させることにしました。

さて新幹線や在来線も不通の福島市、東京行きの高速バスに乗せるかと検討しましたが電話すると、すでに今月は予約でいっぱいの状況(^^;;やっぱり脱出組が多いんですね。結局、福島空港から伊丹乗り継ぎで長崎に飛んでもらうことにしました。

福島空港といえば、福島市からは遠く大変不便で飛行機の便も年々減る状況で、私もブログで廃港にしたほうがいいとか貨物専用空港にしろとか散々酷いことを言っていたのですが(笑)なんとお世話になる羽目になりました。仙台空港がダメな状況のためですが何があるかわからないものです(笑)

22日、朝5時半にタクシーに乗り福島競馬場に向かいます。もちろん馬券を買うためです(大うそ)始発が競馬場からのためですが連休中は、郡山行きでも6台出して乗れない人が出ると聞いたので6時半のバスですが早めに並びました。(2番目でした・笑)

写真左は鉄道が不通で賑わう郡山駅前、中央は福島空港とリムジンバス、右は空港内にあるウルトラマン(円谷英二ゆかりに地が近いため) ウルトラマン、今こそイスカンダルへ飛んで放射能除去装置を持って福島県民を助けてください♪

福島空港へは10時前に着きました。やっぱり遠い空港でした(笑)空港前の道路には狸の死骸がありました(笑)夕方、長崎より息子から無事に着いたとの連絡がありました。とりあえず息子を逃がせ安心♪息子も長崎で地震で受けた心の傷を少しでも癒してくれればと思いました。

相変わらず原発事故は一進二退で、あっちこっちで不安な煙が続く状態で一向に終息する気配がありません。そんな中25日の記事に私はかなりショックで落ち込みました。それはネットの朝日新聞の記事でしたが、事故がレベル6に該当し原発から北西に約40キロ離れた飯舘村では20日、土壌1キロあたり16万3千ベクレルのセシウム137(半減期30年)を検出(1平方メートルあたりに換算して326万ベクレル)、チェルノブイリで強制移住の対象となった地域(55万ベクレル以上)の約6倍の汚染度とのことでした。

しかも福島の原発事故はまだ継続中なのですから性質が悪いです。こんな大事なニュースですが残念ながらテレビでは取り上げられません(涙)東京だったらすぐにニュースになるのに人口の少ない福島ではテレビに値しないにゅーすなのでしょうか(涙)きっと避難対象地域外のため都合が悪いので放送しないのでしょうが本当に酷い話です。

福島県民は東電のためのモルモットや実験台になったつもりはありません。今すぐにでも汚染が酷い北西側については弾力的に避難地域の見直しが必要と思われるだけに非常に憤りを感じます。福島市(原発から北西60K)もこの飯館村に次ぐ放射能が高い地域でしたので、まだ事故が続いている状況を考えると、とても良くなるとは思えません。正直この時点で桃を売るのは終わった(大涙)と思いました。これほどの土壌汚染が周辺部である以上、私は絶望的になっています。

きっとテレビの専門家や原子力安全不安員は「ただちに健康に被害が出るレベルではありません。」と言ってくれそうな気はしますが(笑) でも「そこで育てられた作物をあなたは、自分の子供や孫に与えますか?」そう聞きたいものです。

前を向こうと思いましたが自然は正直に反応したともいうべきですが、数年かけてようやく育てた努力が水の泡になったような気がして力が抜けました。今は東電さんか国と福島の果物販売分の賠償について話し合わねばと思っています(まだ一応桃を出荷できる可能性も0に近い確率で残ってはいますが)。

本当は以前のように全国に福島の桃を送りたかっただけに残念でなりません。。。。。。。。。。。。今はなるべく冷静保ち続けながらも、果たしてこの福島に安全に住み続けられるのか、そしてここが避難対象地域にならないか、そんな不安でいっぱいです。

最近、復興とか頑張ろう日本などという言葉を目にしますが、三陸の壊滅的被害を受けた被災地並びに、地震被害並びに原発事故の恐怖に怯える福島には全く当てはまりません。こんな状況ではとても頑張れませんし、先が見えないのが現実です。未だに暗闇の真っ只中です。勿論、被災地以外の地域は日本経済のために頑張って欲しいとは思いますが、被災地はそんな思いを抱く方が多いのが現実です。

何の運命のいたづらかわかりませんが、長崎市で生まれ育った私は、世界的に放射能で有名な「長崎」「福島」に住むことになりました。勿論戦後に生まれてますので被爆はしていませんが、今は福島で暮らしながら微量の放射能を浴びながら暮らしています。私に与えられた役割とは????ちと考えないといけないのかもしれませんね(笑)

いつ事故が終息するか、悪化する可能性もあり予断できない状況に、毎日が地震以来、1月か1年ほどの重みに感じています。情けない話ですが地震前が懐かしい。。あの頃は。。。。なんて思いも頭によぎります。今後の原発事故の終息を祈り一旦ここで筆を置きます。

3月26日はまた花見山に行ってきました。放射能は嫌ですがやっぱり気になります。罹災証明を市役所で貰うついでに足を伸ばしました。先週よりやはり奇麗になってきた花見山、今年は震災や放射能で花見山に来る人も相当減ると思いますので、せめて近所の私が放射能に侵されるフクシマの春を少しでもお届けしようと思っています。

4月になりましたので、少しそれからのことを書き加えようと思います。西洋人ではないのでエイプリールフールなど関係はありませんが実に重く暗い3月でしたので、できればあれは夢であって欲しいと思う方が東北にはきっと大勢いらっしゃることと思います。

私もその類(笑)ですが、やはり夢ではなく現実でした(涙)深夜から2度ほど余震で目を覚ましました。最近はニュースにならない小さな地震(震度1以下)でもすぐに過敏に反応し心臓が鼓動します。そのうえ放射能の心配・不安も続いているので困ったものです。

もともと東電や原子力安全不安員があてにならないことは福島に15年も住んでいるので十分知っていましたが、あまりの対応の酷さにあきれています。信頼できるのはIAEAやアメリカ・フランスでしょう。日本の官僚は自分のプライドや天下り先は守りますが、残念ながら国民を守ってくれません(涙)

放射能だけに福島では深刻なニュースがいっぱいあるのですが、テレビではスポンサーや何か隠す必要があるためか野菜の風評被害や東京の水道水などばかりで、より深刻な福島の状況を殆ど伝えてくれないマスコミへの怒りや日々深刻化する土壌汚染への心配、放射能への不安で私もこの週は今までになくナーバスになったときが恥ずかしながらあり、余計な夫婦喧嘩なども起こり醜態をさらしていました。

まぁ〜それぐらい私は不安・怒り・悲しみ・悔しさなどでいっぱいだったようですね(笑)これほど追い込まれたことありませんでしたし(^^;;

ただ今、言えることは一人でも多くの方に被爆地福島の現状を知って欲しいということです。小さい頃は長崎で原爆のことを学校でみっちり教えられノーモア長崎なんて言ってましたが、今はノーモア福島になってしまいました(涙)

フクシマの現状その1:3月28日のニュースより フクシマ原発10K圏内のご遺体放射能が高く収容できず。。。遺体すら被爆して収容できない状況に(涙)

フクシマの現状その2:4月29日のニュースより 福島市の雨などの定時降下物1平方メートル当たり放射性ヨウ素2万3000ベクレル、放射性セシウム790ベクレルが検出。。。雨も気をつけないと最悪です。

フクシマの現状その3:4月1日のニュースより 福島県飯館村の土壌からIAEAの避難基準を上回る値が検出された放射性物質ヨウ素131は、測定値は1平方メートル当たり約2千万ベクレルだったと200万ベクレルから修正。。。。とんだエイプリールフールですがIAEAの避難基準の2倍であることは確か。国は大丈夫といいますが、対応が遅く信頼できない(国の機関)だけに不安が増します。

フクシマの現状その4:4月1日のニュースより フランスの放射線専門家は「安定ヨウ素剤」を早く配布を、日本の原子力安全委員会は放射性物質の影響を過小評価していると批判。安全基準をさらに下げる必要性を強調。。。。。人間様ですから私も安全第一と用心過ぎるほどの対応が必要と思いますのでフランスに賛成♪そうでないと不安が増します。

フクシマの現状その5:4月1日のニュースより 浪江町の土壌より通常の2900倍のセシウム検出。。。。土壌はどんどん汚染されています(涙)セシウムは半減期が30年と長いのでとほほです。

今後の原発事故の終息を祈りまた一旦ここで筆を置きます。とりあえず終息には長い長い期間がかかりそうなだけに心配・不安が取り除けないのがフクシマの現状です。続きは下記バナーをクリックしてください。


さてここからは気分を変えて、どうでもいい私の今年最後の北海道旅行の幻旅の旅程♪

北海道・東日本パス

今では夢のまた夢状態(笑)ですが、今の季節は、割合暇で夏は休みのない私は春に毎年のように北海道へ出かけています。そんな訳で地震さへなければ3月18日より行く予定で切符や宿の手配も殆ど済ませており、行く場所の地形図も揃え準備だけは整えていました♪

3月18日は朝仕事を片付けて、11時の鈍行でひたすら東北本線を北上し青森を目指す予定でした。青森からはいつもの急行はまなすで北上する予定で連休前ですが運よく指定席もゲットしていました。

急行はまなす 指定席

3月19日は、寝坊しなければ苫小牧駅で降り、室蘭線で追分駅乗換えで夕張に入り、夕張市内の社光・本町・末広・鹿の谷・常盤・若菜・平和・清水沢、そして楓・登川を訪ねる予定でした。常盤地区にはノモンハンの沢があったようで由来も含め気になりましたが今回は行けませんでした(涙)この日は夕張YHに泊まる予定でした。

3月20日は、朝から来年ダムに沈む大夕張に行く予定でした。大夕張から、夕張岳とシューパロ湖を見つつ千年町・明石町そして南大夕張(南部)の各町を楽しみながら遠幌・清湖町・清稜町を尋ねる予定でした。来年は大夕張地区がダムに沈み見られなくなるだけにこの日が一番楽しみにしていました。この日も夕張YHに泊まる予定でした。

3月21日は、朝早く最後に夕張線の沿線を楽しみながら石勝線特急で新得へ向かい、そこから根室線で狩勝峠を越え芦別に行き、頼城と西芦別地区を尋ねる予定でした。この日はふらのYHに泊まる予定でした。

3月22日は、朝は美馬牛付近から十勝連峰を楽しみ、そこからいつもの通り宗谷本線でひたすら北上し抜海を目指す予定でした。もちろん利尻を見るためです(笑)この日はばっかすに泊まる予定でした。

3月23日は、朝の利尻を楽しみながら抜海を堪能し、いつもの11時の列車で札幌に戻り、22時の急行はまなすのドリームカーで北海道を離れる予定でした。

3月24日は、青森に早朝到着後、ひたすら東北線を南下し福島に戻る予定でした。旅をできていたら、夕張を中心にカムイミンタラでご紹介する予定でしたが今回の震災で幻となりました。ただ大夕張はもう無理ですが、北海道は逃げませんのでいずれまた機会があれば挑戦してみたいです。

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