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天北線さんぽE (浜頓別〜飛行場前)
2011年1月3日、国鉄天北線(音威子府駅〜南稚内駅 148.9K)跡(現:宗谷バス天北線)をさんぽしました。写真が重いこともあり少しずつですが区間を区切りご紹介したいと思います。今回は6回目として浜頓別から飛行場前までになります。このシリーズもようやく佳境に入ってきました。浜頓別を超え猿払村に突入です♪ 私がはじめて北海道を感じた天北線、廃線になっても魅力が衰えることはありません。ちなみに写真は天北線飛行場前仮乗降場跡です。冬は、今列車が来てもおかしくないような光景が広がっています。廃止から20年以上が経ちましたがまだ色濃く残る天北路です♪ここには日本人が知るべき重い歴史が眠っています。 さて浜頓別バスターミナルを後に稚内を目指します。あんまりゆっくりしていたのでどこで暗くなるか不安になってきました。この季節4時ぐらいで暗くなります。それにしても大都会の浜頓別市街、今までの沿線が沿線だけにやけに大都会に見えます。市でないのが不思議なぐらいです(笑) ここからは勿論国道を使うため、しばらく猿払付近までは天北線跡をあまり見ることができません。天北線跡はこの浜頓別から猿払までサイクリングロードとして整備されています、天北線の中でも特に景色のいいとこなので夏はサイクリングお勧めです。私も体験済みです♪自転車は浜頓別温泉ウィングにレンタサイクルがあります。 尚、サイクリングロードに乗った際のは当サイト内の「浜頓別付近のアイヌ語地名」に載せてますのでそちらをご笑覧ください(随分下のリンク内にあります。) しばらくは天北線跡から離れますがクッチャロ湖の湖口に架かっている屈斜路橋梁は現在も国道から見ることができます。現在はサイクリングロード用の橋梁として使われています。知っている人ならすぐ分かりますが、知らない方は分かりずらい可能性もありそうなので一応橋梁の端々に白丸つけています。進行左が浜頓別、右が猿払方面になります。 橋梁の向こう側には美しいクッチャロ湖なんですが国道からは残念ながら見えません。天北線代替バスで一番残念な部分はこのクッチャロ湖が車窓から見えなくなったことですね。 クッチャロ湖ですが、以前は単にトー(湖)と呼んでいたようです。明治時代の地図を見ると橋梁付近にトークッチャロ=ト・クッチャル(湖・のど口)すなわち湖の水が川になる湖口を意味する地名が残されており、ここから現在のクッチャロ湖の名が生まれています。 |
さて、天北線の浜頓別駅の次は山軽駅ですが、その途中に昭和42年10月にすでに廃止された北頓別仮乗降場が存在します。位置的にもはっきりしていないようですが、屈斜路川橋梁の手前にあった説があるようです。確かに空中写真を見ても橋梁の北側には集落が存在していないため有力かもしれません。浜頓別駅からは距離的に1・5Kほど離れた地点になります。 上記写真は昭和50年代初頭に撮影されたクッチャロ湖口(北頓別?)、中央の付近があくまでも推測にすぎませんが天北線北頓別仮乗降場付近?、中央の小さい丸が屈斜路川橋梁に該当します。進行左が音威子府方向、右が浜頓別方向になります。「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より引用。 さて写真の左下ですが天北線とはまったく関係ございません。ただこの付近の明治地図を見るとペンコッタナイ・パンコッタナイという小さい沢のアイヌ語地名が残されていたからです。 ペンコッタナイ=ペン・コル・タ・ナイ(川かみの・フキ・採る・沢)、パンコッタナイ=パン・コル・タ・ナイ(川下の・フキ・採る・沢)の意味と思われますが、コッタとは私の小学校時代のあだ名でしたので感慨深いです(涙)、きっと洒落っ気のある友人が僕を「フキ採る」と呼んでいたんでしょう(笑)、他にも北海道にはコッタロ(釧路)、ウンコウタ(奥尻)など私のあだ名に関連したアイヌ語地名が残されています(笑)アイヌ語地名は奥が深くとても素晴らしいのでした(笑) 上記写真は昭和50年代初頭に撮影された山軽地区、丸が天北線山軽駅になります。進行左下が稚内方向、右上が浜頓別方向になります。場所的にちょうどクッチャロ湖の大沼・小沼の沼をつなぐ短い水道の中間付近になります。「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より引用。 山軽は冬は行くことができませんので空中写真のみで紹介します。大正8年山軽駅が開業すると、クッチャロ湖を流送してきた丸太材が駅の土場に山積みされ最盛期には戸数120、人口550名を数える集落が形成された山軽です、ちょっと現在からは想像ができません。ここも天北線の中でも上音威子府とともに栄枯盛衰の極端な地区です。山軽の集落自体は駅より湖側に形成されていたようです。 戦後には入植で100名を越す人口がいた山軽ですが昭和41年には山軽小学校が閉校、昭和44年には駅の無人化が行われていることから駅の無人化以降は集落もほぼ無くなったように思えます。実際この写真を見ても殆ど何も残っていないことがわかります。現在はサイクリングロードの休憩地点になり、文字が見えなくなってきた当時の山軽駅名標が残っていますが他に集落を示すものは何もありません。それだけ住むには過酷な地だったのでしょう。上音威子府と同様、大きな集落が消え去った天北原野らしい風景のひとつです。 昭和60年代に70名ほどの人口が記録されていますが地内にある智福地区の人口で駅前地区は当然無人です。山軽はアイヌ語のヤムワッカル=ヤム・ワッカ・ル(冷たい・飲み水・道)からきたアイヌ語地名です。 上記写真は昭和50年代初頭に撮影された安別駅付近、丸が天北線安別駅になります。進行右下が音威子府方向、左上が稚内方向になります。上の沼がポン沼、下がクッチャロ湖(小沼)になります。「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より引用。 安別も駅付近は何もなく国道側へ出ても何もない場所です。もともと安別はクッチャロ湖西岸にある集落で集落近くを流れる安別川が地名の語源になっています。安別=ヤシ・ペッ(すくう・川)網などで魚をすくった川という意味です。安別にも以前は開明小学校があり昭和40年には児童数50名いたようですが昭和55年に閉校しています。安別の人口、昭和40年127名 50年86名 60年45名と過疎化が進んでいます。 安別の東部地区は通称オビンナイと呼ばれていたそうです。地図上では安別駅付近が一応オビンナイとも言えそうですがオビンナイ川自体は安別地区より南を流れる川のため??です。 オビンナイ=オ・ピン・ナイ(川尻が・細く深い・沢)といって意味のアイヌ語地名河川です。 浜頓別から天北線跡につくられたサイクリングロードと違い国道は多少海側に離れて併走します。車は速いのであっという間にお隣の猿払村に入りました。久々にやってきたのは天北線でも特に人気のあった飛行場前仮乗降場跡です。まっすぐに延びる天北線の線路跡(前方は音威子府方向)、柵さえなければ雪原から列車が現れてもおかしくないよう風景が残っています。スノーモービルがあれば楽しめるのかもしれませんね。この辺りは冬は暴風雪が吹き荒れるので両側に防風林が続いています。 本当はもっと早く更新する予定だったのですが、この飛行場前で実は頓挫していました。ここには過去の暗い歴史が眠っているからです。だからただの人気駅の紹介で終わらせてはいけない。そう思いながら、どうしようと気が重くなり思案していたら大震災に原発事故で被ばくと、私の歴史にも暗い経験をさせて頂きました。でも、ふるさとから強制的に連行されてこの地で果てた朝鮮人の方に比べればまだ序の口であります。 天北線に初めて乗った20年以上前、なんでこんなところが「飛行場なの?」と不思議に思いましたが、確かに飛行場はあったのです。帝國陸軍浅茅野第一飛行場が。。。。 天北線廃止から20年以上の歳月が流れましたが、駅名標さえはめてくれれば、列車が来ても全く不思議ではありません。広尾線の幸福駅ではありませんが、ここだけでも車両を置いて当時の姿を復元してあげれば結構人気が出そうですが、遠いだけに来る人も限られるのも事実、本当に天北線らしい場所ではあります。。。。 とはいうものの、草むした板敷きホームや枠だけ残された飛行場前駅もなかなかわびさびを重んずる日本文化には捨てがたいよさを感じるのも確かです♪ 天北線飛行場前仮乗降場の駅名標、現在は鬼志別バスターミナル内に展示されています。この模造品でもいいので駅名標だけでも復活してくれるといいんですが(笑)この付近は浅茅野台地(あさちのだいち)と呼ばれています。和名の地名です。 簡単にこの駅名の由来になった帝國陸軍浅茅野第一飛行場の歴史を紹介したいと思います。昭和17年の6月より建設に着手し、19年冬に完成したようです。正確な人数さえ分かりませんがこの極寒の天北原野で強制労働させられた朝鮮人は1000人以上、過酷なタコ部屋労働・疫病・リンチなどで最低でも100名以上の方が亡くなっています。(日本人も15名亡くなっているようです。)ちなみに労働者は、飛行場前駅が当時なかったため天北線の浅茅野駅で降りています。 今でもこの天北原野で故郷を思いながら無念の思いを抱いて散った遺骨が眠っていることでしょう。日本人はタコ部屋労働の他、囚人や地元の勤労隊なども建設に従事しています。 沢山の血を流して作られた飛行場ですが、飛行機が来ること自体殆ど無く、使われないまま敗戦を迎えています。戦争の無情さを伝える上でも歴史的に価値ある浅茅野第一飛行場の歴史です。 そうそうこの飛行場前仮乗降場ですが設置は、昭和30年と新しく、飛行場が無くなった時代に設置されています。本当なら地名の浅茅野台地やアイヌ語地名のモケウニでも良かったと思いますが、歴史を忘れさせないためか「飛行場前」の名前を使った地元に拍手したいです。皆さんももしこの飛行場前に来ることがあったら、この天北原野に散った方々へご冥福をお祈りしましょう、歴史を繰り返さないためにも。。。。 過去の暗い歴史に盲目になってはいけません。歴史を謙虚に学び反省し教訓を学ぶことが未来の歴史にもきっと役に立ちますし、過去の人々への礼儀かもしれません。とはいえ、原発事故をおこした現在の日本は法律すら守らず、守るのは東電と霞が関の利権であり、つくづく歴史を学ぶことの出来ない民族と今は嘆いています。 上記写真は昭和50年代初頭に撮影された飛行場前仮乗降場(駅)付近、中央やや左上の○付近が天北線の飛行場前仮乗降場になります。写真進行左下が天北線浜頓別方面、右上方向が天北線の稚内方面になります。 写真右下の沼はモケウニ沼です。モケウニは勿論アイヌ語地名でモケウニ=モ・ケゥ・イ(小さい・骨・処)といった意味になります。近くにはオンネケウニ=オンネ・ケゥ・イ(大きい・骨・処)と言う地名も以前はあったので、あくまでも推定ですが狩猟した骨を沢山置いていた場所とか、オンネケウニに例えば大きな動物やクジラの骨があり、その場所の近くをモケウニと呼んだなどいろいろ考えることはできますが特定することはきっと難しい地名と思われます。 上記写真は昭和50年代初頭に撮影された浅茅野第一飛行場付近です。右中央付近の○が天北線飛行場前仮乗降場付近、黒丸の部分に1200×60の板敷きの滑走路が造られたそうです。左上の○は飛行場に作られた無蓋の掩体壕が現在も牧場の中に残っているようです。掩体壕は飛行機を敵の攻撃から守るための格納庫のことです。 ようやく天北線全行程の約半分を越え、猿払村に入りました丁度距離的に天北線148.9キロの中間地点ぐらいまできました。あと半分、マイペースに簡易版で申しわけありませんが更新します。今回紹介分ですが浜頓別から10Kもなく歩いても充分行ける距離です(汗) それでも沿線のハイライトであるクッチャロ湖や山軽や飛行場前など魅力的な天北線でも特に人気のある場所でもあります。夏ならサイクリングもできますのでお勧めです。(熊には注意)次回は猿払村の中心、鬼志別を目指します。 続きのFは下記画像をクリックしてください。 尚この天北線さんぽでは稚内の知人「くもゆにさん」に大変お世話になりました。バスすら鉄道時代より減った天北線、くもゆにさんのお力がなくてはとてもさんぽは不可能でした。私のワガパパをこころよく受け入れてくれたこと、そして天北線沿線の天候にも深く感謝します。 実はこの日の予定は浜勇知・夕来・オネトマナイ・稚咲内・オトンルイ・サロベツ方面から利尻を見たり、豊富の新しいサロベツ湿原ビジターセンターに立ち寄る予定でしたが利尻が見えませんでしたので大幅に予定を変えさせて頂いたので運よく実現しました(笑) カムイミンタラすべての項目はこちらからどうぞ♪ |