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天北線さんぽB (敏音知〜松音知)
2011年1月3日、国鉄天北線(音威子府駅〜南稚内駅 148.9K)跡(現:宗谷バス天北線)をさんぽしました。写真が重いこともあり少しずつですが区間を区切りご紹介したいと思います。今回は3回目として敏音知(ピンネシリ)から松音知(マツネシリ)までになります。 そう♪すぐお隣です(笑)距離にして鉄道時代で7Kほど(笑)まだ先は長く遠き道のりです(^^;ちなみにピンネはアイヌ語で男の〜、マツネはアイヌ語で女の〜を意味します。今回はそんな訳で男と女の生物学的なお尻について追及しようと思います(大うそ)シリはアイヌ語で山を意味しますので、男の山と女の山が仲良くある地域です。道内に他にもこのピンネシリ・マツネシリはありますが、山の他に地名も両方あるのはこの中頓別だけだと思います。 私がはじめて北海道を感じた天北線、廃線になっても魅力が衰えることはありません。ちなみに写真は周磨駅跡(宗谷バス天北線 周麿バス停)よりみたピンネシリです。 さて前回は道の駅ピンネシリまでを紹介しました。この道の駅がかっての天北線敏音知駅跡になります。写真のように記念のモニュメントとしてミニホームや駅名標が設置されています。雪でこれ以上近づけませんでした(笑)この付近よりピンネシリ岳(標高704メートル)まで登山道も整備されています。また近くにピンネシリ温泉もあるので結構楽しめる場所です。 上記写真は昭和50年代初頭に撮影された敏音知地区、右の丸が敏音知小学校、左の丸が天北線敏音知駅に該当します。進行右が音威子府方向、左が浜頓別方向になります。「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より引用。 ちなみに昭和60年代の敏音知地区の人口は100人弱と隣の松音知地区より少ないものの、無人の松音知駅と違い最後まで交換設備があったためか敏音知駅は有人駅でした。前回のトップ写真で紹介した敏音知小学校は松音知小学校より7年ほど長い平成18年閉校だったようです。校舎が新しいだけに勿体無い気もします。そんな敏音知地区も昭和30年次に511名、40年次には339名の方が暮らしていたようです。 |
天北線敏音知駅跡より見るピンネシリ、駅は無くなってもここからのピンネシリは変ることはありません。ここからは意外と尖った形に見える男らしいピンネシリです。男の山らしく格好がいい山です。恵野・敏音知・周麿・松音知と場所を変えるごとに山の形が変るのがとても素敵なピンネシリ、なかなか近くで見る機会はないのですが利尻の次に好きな山です。 藤山地区より見たピンネシリ、雪原の木々がある付近が天北線跡になります。 久々に周磨駅跡に来ました♪写真中央の木々の間を天北線が浜頓別へ向かって走っていました。仮乗降場だった周磨は板張りだけのホームが写真右の手前付近にありました。私が天北線に乗車した際に気になったこの周磨はアイヌ語のシュマルプネプ=シュマ・ルプネ・プ(石・ごろごろある・もの)からきたアイヌ語地名で近くを流れる周麿川を指したものです。 北海道らしい牧歌的な風景と地名、そしてピンネシリの存在が高校時代、初めて北海道を旅行した私に北海道にいる実感を感じさせてくれました。北海道に入って2日目のことでした。そんな私には思い出のある好きな周麿です。 周麿から見るピンネシリが個人的には一番好きです。ようやくうっすらですが頂上が見えました。まさにピンネへの道といった道路です♪ちなみに、この付近は以前カムイミンタラのサイト内で「周麿付近のアイヌ語地名」としても紹介しています。 周磨駅跡より500メートルほど中頓別方面へ向かうと天北線の霞川橋梁を現在も見ることができます、河川は「中の川」になります。 天北線の霞川橋梁とピンネシリ、ここに国鉄色のキハ22でも飾ってくれると絵になるんですがね。 周麿より3Kほど進むと松音知地区になります。ここのバス停もご立派です。 上記写真は昭和50年代初頭に撮影された松音知地区、左の丸が松音知小学校、右の丸が天北線松音知駅に該当します。進行下が音威子府方向、上が浜頓別方向になります。「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より引用。 松音知は地区からやや離れた南東部に地名の語源になったマツネシリ岳があります。人口は昭和60年代、敏音知より若干多い100名ちょっとの集落ですが駅は無人で小学校も敏音知より早い平成11年に閉校しています。そんな松音知地区も昭和30年次には470名、40年次には368名の方が暮らしていたようです。 松音知地区より見た中央の富士山型の山がピンネシリで左側に付随したなだらかな山がマツネシリになります。ピンネシリに比べ女性的?というべきかなだらかで独立峰でもなく、山頂が判然としない山です。もしかしたら方向によってはそれなりの山容に見えるのかもしれません。(^^;とはいえ、地名が松音知のこの地から見た山容が一番マツネシリらしい可能性が高いように思えます。 ピンネシリ・マツネシリというと、道内では道東の雄阿寒岳・雌阿寒岳、道央空知のピンネシリと待根山、後志の尻別岳・羊蹄山の関係がすぐに頭に思い浮かびますが、それらに比べると、夫婦仲がよすぎるのか、相対するような関係ではありません。 またこの中頓別にあるピンネシリやマツネシリは江戸時代の文献には出てこない山名です。内陸で雪も深く寒冷で海も遠いこの地はアイヌの人たちにとっても海岸側に比べ生活しがたい場所、そういった理由から地名なども少なかったように思えます。意外と明治になり和人が入植するようになり、狩猟などで山奥に来ていたアイヌがたまたま呼んでいた山の名が正式な山の名になった可能性もあるかもしれません。 この付近は文献が少ないだけにあくまでも推量の世界で、当時の人にでも聞かない限り断定することは不可能なように思えます。 江戸時代の探検家・松浦武四郎の東西蝦夷山川取調図にはこの付近の山にフウ子シリ=プゥ・ネ・シリ(倉・の・山)が存在します。もちろんどの山であるか断定はできませんが、ピンネシリ又はピンネシリとマツネシリの総称として当時のアイヌの方がフウ子シリと呼んでいた可能性もあります。 なんとなく倉にも見えそうな山容です。 脱線しましたが、ようやく松音知まで来ました。2回目の小頓別から20Kぐらいも進んじゃいました(笑)、次回もノロノロ安全運転でご報告の予定です。 4回目は下記バナーをクリックしてください。 尚この天北線さんぽでは稚内の知人「くもゆにさん」に大変お世話になりました。バスすら鉄道時代より減った天北線、くもゆにさんのお力がなくてはとてもさんぽは不可能でした。私のワガパパをこころよく受け入れてくれたこと、そして天北線沿線の天候にも深く感謝します。 実はこの日の予定は浜勇知・夕来・オネトマナイ・稚咲内・オトンルイ・サロベツ方面から利尻を見たり、豊富の新しいサロベツ湿原ビジターセンターに立ち寄る予定でしたが利尻が見えませんでしたので大幅に予定を変えさせて頂いたので運よく実現しました(笑) カムイミンタラすべての項目はこちらからどうぞ♪ |