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天北線さんぽI (曲渕〜恵北) 簡易版
2011年1月3日、国鉄天北線(音威子府駅〜南稚内駅 148.9K)跡(現:宗谷バス天北線)をさんぽしました。写真が重いこともあり少しずつですが区間を区切りご紹介したいと思います。今回はようやく最終回として曲渕から声問村恵北までの区間になります。尚、この区間、私が来た2011年正月は勿論現役でしたが、2011年10月より、宗谷バス天北線が宗谷岬経由に改められたため残念ながら廃止されています。尚、こちらも簡易版となります。 写真は、夕暮れの曲渕駅跡、もと炭坑のあった街で、曲渕は温泉や映画館のあった時代も存在していました。今は当時を想像できないような小さい集落になっています。尚、天北線の恵北〜南稚内間は日没のため載せておりません。ご了承ください。尚、当サイト内にある稚内天北線さんぽには声問〜樺岡間を載せています。 曲渕駅跡は公園になり、駅の待合所風の休憩所があります。 冬の夕暮れ早き最北、急ぎ次の沼川駅跡へ、こちらは駅名標の他、当時の沼川駅舎の写真が載った記念碑もあり、何もない場所よりとても好ましい状態です。沼川は比較的大きな集落で天北線のバスも稚内から乗るとここで降りる乗客が結構いました。なんか静かでいい雰囲気の夕暮れでした。 沼川の復刻駅名標、できれば声問とかもこんな感じの記念碑でもあるといいんですが |
上記写真は昭和50年代初頭に撮影された沼川駅付近です。写真右上の○は沼川小中学校、2002年に近隣の上声問、樺岡、曲渕など数地区の統合により現在は天北線にちなんだ天北小中学校になっています。地区内には郵便局や駐在所もあり、この周辺では一番大きな集落です。左の○が天北線沼川駅になります。進行左上が稚内方向、右下が浜頓別方向になります。「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より引用。 急ぎ足にて(汗)次の樺岡へ、ここは沼川の駅名標と違って天北線時代の駅名標が未だに頑張ってますが年年字が見えなくなってきてます。ちなみに地名はアイヌ語地名が語源でタツニナラウシュナイ=タッ・二ナル・ウシ・ナイ(樺の木・台地・ある・沢)からきています。 宗谷バス樺岡バス停より樺岡駅舎側、写真の小屋は天北線の時代からあったらしい建物です。現在は地元の方の「ネイチャーラブの森」として再生しています。 上記写真は昭和50年代初頭に撮影された樺岡駅付近です。写真左上の○が樺岡小中学校、中央の○が天北線樺岡駅になります。進行左が稚内方向、右が浜頓別方向になります。すでにこの時代から小中学校があるのが不思議なほど小さい集落に思えます。「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より引用。 駆け足ではありましたが、ようやく恵北へやってきました。画像中央が天北線跡(浜頓別方向)になります。恵北はかって幕別と呼ばれ、稚内よりこの幕別までの列車があった時代もありました。十勝の幕別町との兼ね合いで名前が恵北に変わったようです。実は天北にしようという話もあったみたいですが、急行も止まらない天北線の天北駅はどうかという声もあり、恵北に落ち着いたようです。 地名はアイヌ語地名のマクンベツ=マク・ウン・ペッ(奥に・入る・川)が語源になっています。現在も幕別平野や幕別川など細々と名を残しています。またこの恵北には旧帝国海軍大湊通信隊稚内分遺隊幕別送信所庁舎が保存状況はよくありませんが残っていたり、学校裏の通称タンク山で石油採掘が行われた時代があったり、天北線のタコ部屋あったようで、話題性のある地区です。 天北線恵北駅跡、石碑と駅前の木が歴史を語ってくれています。 駅前に残る商店、昭和時代そのままのいい雰囲気です。15年に見たら新しい店に生まれ変わっていました。これもまた時代の流れですね。ようやく震災もあり、いろいろありましたが完成しました。見て頂きありがとうございました。 上記写真は昭和50年代初頭に撮影された恵北駅付近です。写真上○が実に長ったらしいですが旧帝国海軍大湊通信隊稚内分遺隊幕別送信所庁舎になります。 右○が増幌小中学校、左の○が天北線恵北駅になります。進行左が稚内方向、右が浜頓別方向になります。「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より引用。 尚この天北線さんぽでは稚内の知人「くもゆにさん」に大変お世話になりました。バスすら鉄道時代より減った天北線、くもゆにさんのお力がなくてはとてもさんぽは不可能でした。私のワガパパをこころよく受け入れてくれたこと、そして天北線沿線の天候にも深く感謝します。 実はこの日の予定は浜勇知・夕来・オネトマナイ・稚咲内・オトンルイ・サロベツ方面から利尻を見たり、豊富の新しいサロベツ湿原ビジターセンターに立ち寄る予定でしたが利尻が見えませんでしたので大幅に予定を変えさせて頂いたので運よく実現しました(笑) カムイミンタラすべての項目はこちらからどうぞ♪ |